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今日の原稿

書いた仕事などについて

真田丸の話(家康の死から松下幸之助のパナソニック創業まで)

真田丸』で、いよいよ家康と幸村の激突が近づいているということで、家康の大阪死亡説から松下幸之助パナソニック創業までを。
 
1615年大坂夏の陣で、家康が幸村の攻撃を受けて潰走するのが5月7日。
手勢3000を率いる幸村は、松平忠直13000の守備隊を突破し、三隊に分けた兵を家康の本陣まで持っていく。順番に突入してくるから本陣は総崩れし、家康は死を覚悟して何度も切腹を口走ります。
そして籠に乗り込み、命からがら逃げのびるというのが「正史」の話。
 
ところが『南宗寺史』によると、家康の籠は追ってきた後藤又兵衛の槍に突かれます。
そして、「主君の安否如何と武士の面々が恐る恐る籠の扉を開けると、家康はすでにこと切れていた。なにぶん戦時中なのですべてを機密にし、遺骸を南宗寺の開山堂の下に隠し、徳川の世になってからこれを久能山に改葬したことにして、さらに日光山へ持っていった」とある。
しかし又兵衛は5月6日に死んだことになっています。おかしいじゃないですか。ここに歴史を書き換えた何かがいる。
 
実際に南宗寺に行きますと、ひっそり建つ無名の墓がありまして、そこに「無銘ノ塔 家康サン諾ス 観自在」と書いてあります。
 
さらに、昭和42年に新しく「徳川家康の墓」が作られます。
これを建てたのがパナソニック松下幸之助水戸徳川家初代家老の三木仁兵衛さんの子孫、三木啓次郎さん。
また当時の堺市長の河盛安之介、国務大臣塚原俊郎茨城県知事の岩上二郎など。
墓の横には石碑があって「この無名塔を家康の墓と認める」とある。山岡鉄舟の筆とされます。
本来は慶喜が書くつもりだったんだけれども、「あなたが書いたら問題が生じる」と言って山岡が書いた。
 
では、大坂夏の陣で死んだ家康はその後どうなったか。
ここで出てくるのが「影武者説」です。
当時、家康の顔はどこにも載ってないからみんな知らない。
そこで側近たちが、姿形の似た信濃の武士である小笠原秀政を影武者にします。
このとき、秀政の長男は戦死し、次男は意識不明の重体でした。
ところが夏の陣を終えると、重体の次男・小笠原忠真が生き返ってしまう。
そこで忠真は、信濃松本8万石から小倉15万石へ加増・転封されます。口止めですね。
ちなみに彼のもとで30年仕えたのが宮本武蔵です。
 
さらに皆さんご存じの「日光東照宮」。
他にも東照宮は、静岡に「久能山東照宮」、和歌山に「紀州東照宮」があります。
これ、おかしくないですか。なぜ「日光」と付けるんです? 最初の東照宮なら付ける必要ないんです。
 
戦前の南宗寺には「東照宮」がありました。
これは太平洋戦争で焼失します。この東照宮の前にあったのが現在国の重要文化財となっている「唐門」です。
堺の奉行は、着任したらまず最初にここへ参拝に来ました。
唐門の瓦にあるのは葵の御紋です。こんな意匠は勝手に使えません。幕府が認めていたということです。
 
南宗寺には「坐雲亭」という庵がありまして、そこの額を読むと「征夷大将軍秀忠公と家光公が相次いでここにきました」と書いてある。
1623年(元和9年)7月10日に秀忠、そして8月18日に家光。
どうして2人が別々に、しかも連続して江戸から堺まで莫大な費用をかけて来たのか。
これは、ちょうど2人が代替わりした時期にあたっており、秀忠が「将軍の座を家光に譲る」というご挨拶を父にするため来た。そして家光が祖父に「将軍になりました」とご挨拶に来たというわけです。
 
先述した三木さんと松下さんについて。
まず三木仁兵衛は、水戸徳川に「殺しておいてくれ」と頼まれたご落胤を預かり、命令を無視して我が子として育てた人です。
その後、水戸徳川家に世継ぎがいなくなって大騒ぎになる。
そこで出てきたのが仁兵衛さんの「息子」で、これが水戸徳川を継ぎます。
その名を、水戸光圀と言います。水戸黄門として知られる人です。
そういう経緯があるから、仁兵衛さんが水戸の家老となるわけです。
 
遙か次代を下って昭和へ。
仁兵衛さんの子孫の三木啓次郎さんが四天王寺の境内を歩いていると、露店で二股ソケットを売る男がいました。
これが無名の頃の松下幸之助です。
 
「何これ?」と聞くと、幸之助は商品のすばらしさを一生懸命説明するわけです。
「これは必ず売れます。作れば作るだけ売れる。でも自分には作る資金がありません」
啓次郎さんは「わかった」と。
そして水戸にある家土地を担保にし、その全額を渡します。
これで資金を得た幸之助は大成功をおさめ、後のパナソニックへと成長します。
  
大金持ちになった幸之助は、啓次郎さんに借りたお金の利息をいくら返せばいいか、相談します。啓次郎さんは、「おまえはまだ金を使い方を知らないのか。じゃあ自分の言うとおりにすれば充分だ」。
これで幸之助は、啓次郎さんの指示で四天王寺に極楽門、浅草に雷門をつくる。
 
歴史が面白いのは、こういう「ご縁」が明らかになるときではないでしょうか。
 
で、家康死去から影武者までの策謀を描いたのは誰か。
普通に考えれば秀忠でしょうが、私は妻のお江さんだと思います。
夫の秀忠には義父・家康ほどのカリスマがない。
 
真田丸』でも描かれてましたけど、秀忠が大阪に向かうにあたり、お江から「私の姉を殺してはいけません。親友の秀頼さんも殺してはダメ」と言われました。
しかし和睦はならず夏の陣が始まります。
 
お江は、このまま夫に任せるばかりでは後の世が平定ならぬ、戦がさらに続くと怖れた。
かつて彼女の父・信長公も戦のない世を目指しました。
信長が初めて堺に来たとき、こんな言葉をのこしています。
「天下を制するとは、堺と京都を制すること」
その地で家康は斃れた。
南宗寺にその遺体を隠し、10通以上の朱印状を書いて寺に口止め工作をした。
結果として、お江は父の夢を実現したのかなと。

ということで、『真田丸』は家康の最後をどう描くでしょうか。
楽しみです。