今日の原稿

書いた仕事などについて

私語をする生徒への注意の仕方

「君たちは、授業を『各科目について教えてもらう時間』と勘違いしているのではないか?」

「もし君たちが、自宅でレンタルなどして映画を観るとする。それがとんでもないゴミのような作品だったとき、君たちはその場で中断することができる」
「しかしこれが映画館だったら? 中断して外に出たらチケット代がもったいない」

「俺は、『映画は映画館で見ろ』といつも言っている。それは、ゴミのような作品に出会ったとしても、2時間耐えて見続けることで何かしらの楽しみを発見することがあるからだ」
「しかし、全く何の楽しみも見出せない場合もある。そのとき、俺は思う。『俺はなぜこんな場所で2時間もの間、こんな場所にじっと座って、全く面白くない作品を凝視しているのか?』と。そして俺は悟る。世の中にはこんな理不尽があるのだと」

「授業も同じだ。面白い授業もあればつまらない授業もある。授業とは1時間なら1時間、ただ座って人の話をじっと聞かされるという理不尽を学ぶ修行の場なのだ」

「つまらないと思う自分を疑え。今この場を楽しむためには自分に何が足りないのかを思考しろ。理不尽の中に自分だけの気づきを探してみろ」
「教えてもらおうと思うな。学びとは常に自分自身で発見するものだ」
 
「お〜」という声と共に、とりあえず私語する生徒はいなくなった。

 
自分自身、中高生時代は「なんで勉強せなあかんの?(鼻ホジホジ)」みたいな感じだった。
しかし教える側としての問題は、「心底つまらない」と思っている生徒ももれなくフォローする必要がある。そういうタイプに「自分を疑え」などと言っても通じない。そこは「修行と思え(まずは黙って話を聞け)」というところからスタートとなる。