今日の原稿

書いた仕事などについて

作家になりたいという気持ちの「痛さ」が理解できるが故の「痛み」について

堂島ホテルが営業終了するらしい。ということで堂島ホテルの思い出、というほどでもない出来事について。

大阪の堂島ホテル、年内で営業終了 著名人らが愛用:朝日新聞デジタル


数年前、ある編集者に「小説を読んでアドバイスしてほしい」と頼まれた。
自分にはよく分からないジャンルだから、という話だった。

昔、別の仕事で原稿の全体構造などの改善点を尋ねられ、まとめて筆者に話したところ伝え方などが好評だったらしく、以来定期的にその手の依頼が来ていた。
 
なんでも今回の作品を書いたAさんは若い頃、某超有名脚本家の先生門下で修行し、それから役所に勤めた後、早期退職して作家の道を志しているという話だった。
先生は弟子たちに「必ず書くこと以外の生活手段を確立するように」と厳しく指導し、Aさんは教えを守って不本意ながら公務員になったということだった。
 
Aさんを紹介した編集者と僕が呼び出されたのは、地方の小さな駅前だった。
そこからAさんの家に行くかと思ったら「少し歩きましょう」と言われた。
別に歩きたくなかったが、いきなりだったのでとりあえずAさんの散歩につきあった。
 
Aさんは僕たちを近くの鎮守の森に案内し、「自分が大学生だった頃、あの家の窓辺にいつも座っているきれいな女性がいた」といった思い出話をした。
すぐに理由は分かったが、Aさんが書いたのは短編集で、その舞台がこのあたりなのだった。
しかし自分にとって思い入れのないAさんの作品の裏話を聞いても「なるほど、ここがあの……」と胸が熱くなったりはしない。
 
それからやっとAさんの仕事部屋に案内された。
Aさんは早期退職のお金で、住居と同じアパート内に「執筆用の部屋」を借りていた。
ちなみにAさんは独身だった。そして部屋は資料であふれかえっている……ということもなく、ごく普通の民家だった。
(何のために借りたんだろう?)
頭の中に小さなハテナマークが浮かんだが、何も言わずにいた。
とりあえずAさんの原稿を出してはみたものの、Aさんは無視して公務員時代や先生とのエピソードを滔々と語り続けた。
僕はAさんの昔語りを上の空で頷きながら、「どう話し出したものか」と悩んでいた。
 
というのも、Aさんの小説はとりあえずその時点では、いろいろ問題点があるように感じたからだった。
Aさんは既に堅い職業を捨て、仕事部屋まで用意し、背水の陣で作家デビューを目指している。
そのため僕はきわめて具体的に話すことにした。
抽象的なことは一切言わず、「このキャラクターを表現したいなら、たとえばこんな舞台を設定し、こう伏線を敷いて、それからこう書いてみてはどうでしょう?」とアイデア例を交えて説明した。
もちろんそのまま採用しろ、というつもりはなく、そこまで大したアイデアでもない。
ただAさんがいかに本気かというのは充分伝わったし、この話し合いで現在の問題点を洗い出すことで、Aさんが作品にぶつけたいテーマをより明確に浮かび上がらせたいと思っていた。
 
Aさんは、僕の話を聞いて「なるほど」と言いながら、全てメモに取ってくれた。2時間ほど話して部屋を辞した。
編集者から「おつかれさん」と言われた。
やるべきことはできたはず。そう思ってこの日は終わった。
 
翌月、編集者から連絡があった。

Aさんから「書き直したから読んでほしい」と連絡があったという。
僕は驚いた。こういう依頼は一度きりのことが全体の半分程度あり、Aさんはおそらく書き直さない方の人だろうと勝手に判断していたからだ。
待ち合わせに指定されたのは、大阪の堂島ホテル1階の喫茶室だった。
直した原稿は事前にはくれず、その場に持参するという。
(えっ、なんで?)
不思議に思った。文章の構造というものは、最初から最後まで読まないと分析できない。その場で読んですぐにどうこう言うのは難しいのだ。
しかしAさんがそう言うならと気を取り直して堂島ホテルに向かい、Aさんと編集者と待ち合わせ、喫茶室に入った。
 
奥まった端のテーブル席に案内され、僕たちは各々注文をして人心地ついた。
するとAさんが穏やかな声で「ご指導ありがとうございました」と言って原稿を取り出した。
僕はそれを受け取って読み、少し驚いた。
原稿はほぼ以前の状態のままで変わっておらず、僕の言ったことはほぼ無視されていたからだ。
原稿から顔を上げると、Aさんは「どうだ」という顔をしている。
 
僕は1ヶ所ずつ「ここは、なぜ変えなかったんです?」と尋ねた。
たとえば、
「これだと何が言いたいのか、伝わりにくいですよね」
「キャラクターを生かし切れておらず、もったいないです」
「これは本筋と関係ない話なので、読者が混乱するかもしれませんよ」
などと述べた。
 
するとAさんは、繰り返し「それが狙いです」と返答をした。
そうか、狙いならしょうがない。しかしだ。それにしてもだ。
(変えてないなら、なぜわざわざこの場所に呼び出したんだろう?)
またもや頭の中に、今度は大きめのハテナマークが浮かび始めたときだった。
 
Aさんが若いウェイトレスを呼び止めた。
「あの席は空いたかね。いつも使っている席なんだけど」
Aさんが指さしたのは喫茶室中央の大きなソファ席だった。テーブルには既に飲み物と原稿が広がっているし、面倒だと思ったが、Aさんは立ち上がって歩き始めていた。
それから中央のソファに勢いよく腰を下ろすと、追いかけて向かいに座った僕たちに向け、急に大声で文学談義を始めた。
僕も編集者もその豹変ぶりに驚き、あっけにとられた。
本当に大きな声だったので、周辺に座っていた客が驚いた顔でこちらを見ていた。
 
演説にひと段落ついたAさんは、自分で持ってきた原稿を大きな封筒に入れ、自宅の住所を宛先に書き、再びウェイトレスを呼んだ。
そして小銭とともに彼女に封筒を差し出した。
「これを郵便局に出してきてくれないか。お釣りはいらない。大事な原稿が入っているから、くれぐれもなくさないでくれよ」
彼女は明らかに戸惑っていたものの、「かしこまりました」と封筒を受け取った。
隣を見ると、編集者は曖昧な笑顔を浮かべていた。
 
やっとわかった。Aさんがやりたかったのはこれだ。
作品の舞台となった場所を案内したのも。
「執筆用の家」を見せたのも。
堂島ホテルに呼び出したのも。
全てはAさんが憧れる「作家的なシチュエーション」だったのだろう。
僕はAさんの気持ちが痛いほど解る気がした。
でも、だからこそ、作品をより良いものにしてその思いを本物にする手伝いがしたかった。
 
Aさんと別れた後、編集者は「なんだか、ごめんね」と言った。
僕は「Aさんはこれから、どうするでしょうか」と聞くと、編集者は「そこまで気にしてたら身がもたないよ。今日はありがとう」
そう言って笑うと、さっさと地下鉄へと消えていった。