今日の原稿

書いた仕事などについて

水が世界を支配する

水によって文明が勃興し、発展し、衝突するという「水視点」の文明論。水がどれだけあるかによって農業生産が決まり、その量によって人口が決まる。
そのため人は水を求めてあがき続け、水を支配した者がその地を制してきたという観点で世界の歴史をまとめている。

水が世界を支配する

水が世界を支配する

 

 

東京デザインウィークの焼死事件について

ずっと東京デザインウィークでの火災事件のことが頭から離れない。
自分がもしあのお父さんの立場だったらと想像しただけで過呼吸のようになり、吐き気がして涙がにじむ。

アートだなんだと言ってるが、「デザイン」と銘打っているのだから、あれはデザインの問題だ。
デザインとは見た目ではなくソリューション(問題解決)なのだから、何をどう言い訳しようと事故の言い逃れはできないし、責任を取るべき人間は明確に存在する。

担当教授は「建築学」という学問の名にかけて、身命をもって償わねばならないほどの大失態だと思う。
主催者、管理責任者、そして理事として名前を貸して小遣い稼ぎをしていた連中もだ。

5才の幼い命を、父親の目の前で焼き殺してしまったという事実はそれほど重い。

しかし同時に、誰にどう贖いをさせようと、二度とその命は戻ってはこない。
誰それが悪かったと言いつのったところで、あの父親の前に我が子が元気に笑いかけてくれることはもうない。

自分がその立場だったらどうなるだろう?

とてもではないが、妻に顔向けできない。
死んだ我が子に申し開きができようはずもない。
責任を追及しようと、悪者を探し出そうと、父親としての自分の判断ミスが覆るわけではない。

あんなところで遊ばせようとしなければ。
中に入るなと一言声をかけていれば。
燃え始めた時点で人手を使い、ジャングルジムを持ち上げる判断ができていれば。
そもそもこんなイベントに来ようと思わなければ。

おそらく俺はその後悔に耐えられそうにない。
想像しただけで頭がおかしくなりそうになる。
心が痛む。

真田丸の話(家康の死から松下幸之助のパナソニック創業まで)

真田丸』で、いよいよ家康と幸村の激突が近づいているということで、家康の大阪死亡説から松下幸之助パナソニック創業までを。
 
1615年大坂夏の陣で、家康が幸村の攻撃を受けて潰走するのが5月7日。
手勢3000を率いる幸村は、松平忠直13000の守備隊を突破し、三隊に分けた兵を家康の本陣まで持っていく。順番に突入してくるから本陣は総崩れし、家康は死を覚悟して何度も切腹を口走ります。
そして籠に乗り込み、命からがら逃げのびるというのが「正史」の話。
 
ところが『南宗寺史』によると、家康の籠は追ってきた後藤又兵衛の槍に突かれます。
そして、「主君の安否如何と武士の面々が恐る恐る籠の扉を開けると、家康はすでにこと切れていた。なにぶん戦時中なのですべてを機密にし、遺骸を南宗寺の開山堂の下に隠し、徳川の世になってからこれを久能山に改葬したことにして、さらに日光山へ持っていった」とある。
しかし又兵衛は5月6日に死んだことになっています。おかしいじゃないですか。ここに歴史を書き換えた何かがいる。
 
実際に南宗寺に行きますと、ひっそり建つ無名の墓がありまして、そこに「無銘ノ塔 家康サン諾ス 観自在」と書いてあります。
 
さらに、昭和42年に新しく「徳川家康の墓」が作られます。
これを建てたのがパナソニック松下幸之助水戸徳川家初代家老の三木仁兵衛さんの子孫、三木啓次郎さん。
また当時の堺市長の河盛安之介、国務大臣塚原俊郎茨城県知事の岩上二郎など。
墓の横には石碑があって「この無名塔を家康の墓と認める」とある。山岡鉄舟の筆とされます。
本来は慶喜が書くつもりだったんだけれども、「あなたが書いたら問題が生じる」と言って山岡が書いた。
 
では、大坂夏の陣で死んだ家康はその後どうなったか。
ここで出てくるのが「影武者説」です。
当時、家康の顔はどこにも載ってないからみんな知らない。
そこで側近たちが、姿形の似た信濃の武士である小笠原秀政を影武者にします。
このとき、秀政の長男は戦死し、次男は意識不明の重体でした。
ところが夏の陣を終えると、重体の次男・小笠原忠真が生き返ってしまう。
そこで忠真は、信濃松本8万石から小倉15万石へ加増・転封されます。口止めですね。
ちなみに彼のもとで30年仕えたのが宮本武蔵です。
 
さらに皆さんご存じの「日光東照宮」。
他にも東照宮は、静岡に「久能山東照宮」、和歌山に「紀州東照宮」があります。
これ、おかしくないですか。なぜ「日光」と付けるんです? 最初の東照宮なら付ける必要ないんです。
 
戦前の南宗寺には「東照宮」がありました。
これは太平洋戦争で焼失します。この東照宮の前にあったのが現在国の重要文化財となっている「唐門」です。
堺の奉行は、着任したらまず最初にここへ参拝に来ました。
唐門の瓦にあるのは葵の御紋です。こんな意匠は勝手に使えません。幕府が認めていたということです。
 
南宗寺には「坐雲亭」という庵がありまして、そこの額を読むと「征夷大将軍秀忠公と家光公が相次いでここにきました」と書いてある。
1623年(元和9年)7月10日に秀忠、そして8月18日に家光。
どうして2人が別々に、しかも連続して江戸から堺まで莫大な費用をかけて来たのか。
これは、ちょうど2人が代替わりした時期にあたっており、秀忠が「将軍の座を家光に譲る」というご挨拶を父にするため来た。そして家光が祖父に「将軍になりました」とご挨拶に来たというわけです。
 
先述した三木さんと松下さんについて。
まず三木仁兵衛は、水戸徳川に「殺しておいてくれ」と頼まれたご落胤を預かり、命令を無視して我が子として育てた人です。
その後、水戸徳川家に世継ぎがいなくなって大騒ぎになる。
そこで出てきたのが仁兵衛さんの「息子」で、これが水戸徳川を継ぎます。
その名を、水戸光圀と言います。水戸黄門として知られる人です。
そういう経緯があるから、仁兵衛さんが水戸の家老となるわけです。
 
遙か次代を下って昭和へ。
仁兵衛さんの子孫の三木啓次郎さんが四天王寺の境内を歩いていると、露店で二股ソケットを売る男がいました。
これが無名の頃の松下幸之助です。
 
「何これ?」と聞くと、幸之助は商品のすばらしさを一生懸命説明するわけです。
「これは必ず売れます。作れば作るだけ売れる。でも自分には作る資金がありません」
啓次郎さんは「わかった」と。
そして水戸にある家土地を担保にし、その全額を渡します。
これで資金を得た幸之助は大成功をおさめ、後のパナソニックへと成長します。
  
大金持ちになった幸之助は、啓次郎さんに借りたお金の利息をいくら返せばいいか、相談します。啓次郎さんは、「おまえはまだ金を使い方を知らないのか。じゃあ自分の言うとおりにすれば充分だ」。
これで幸之助は、啓次郎さんの指示で四天王寺に極楽門、浅草に雷門をつくる。
 
歴史が面白いのは、こういう「ご縁」が明らかになるときではないでしょうか。
 
で、家康死去から影武者までの策謀を描いたのは誰か。
普通に考えれば秀忠でしょうが、私は妻のお江さんだと思います。
夫の秀忠には義父・家康ほどのカリスマがない。
 
真田丸』でも描かれてましたけど、秀忠が大阪に向かうにあたり、お江から「私の姉を殺してはいけません。親友の秀頼さんも殺してはダメ」と言われました。
しかし和睦はならず夏の陣が始まります。
 
お江は、このまま夫に任せるばかりでは後の世が平定ならぬ、戦がさらに続くと怖れた。
かつて彼女の父・信長公も戦のない世を目指しました。
信長が初めて堺に来たとき、こんな言葉をのこしています。
「天下を制するとは、堺と京都を制すること」
その地で家康は斃れた。
南宗寺にその遺体を隠し、10通以上の朱印状を書いて寺に口止め工作をした。
結果として、お江は父の夢を実現したのかなと。

ということで、『真田丸』は家康の最後をどう描くでしょうか。
楽しみです。

自分は良くても他人には良くないこと

撮影スタッフを引き連れてお祭りの取材。

普段はインドアで原稿を書いているか、取材といっても屋内でじっくりインタビューするかしかなく、屋外イベントで見聞きしたことを書くような仕事は珍しい。
自分からそういう仕事を取りに行くことはなく、カメラマンから「お祭りの仕事があるんだけど、一緒にやらない?」と言われて面白そうだから引き受けたのだった。

しかし。
つくづく、自分はテレビ局やイベント屋で働くことはできないと思い知った。

今回の祭りでは、現地到着初日の午後から3日めの夜までいろんな行事があった。
そこで関係者インタビューをその合間にこなしていく。
ぶらりと行ってテキトーに関係者がつかまるわけはないので、まずは各所のスケジュールを押さえておかないといけない。
全員が一同に会しているわけじゃないので、移動時間も考慮しなくてはならない。

また順番通りに追いかければ良いというわけではなく、たとえば西から東にA、B、Cと地点が並んでいて、9:00にA地点、10:00にB地点、10:30にC地点でイベントがあるとする。
この場合、もしB地点のイベントが10:00〜13:00といったことであれば、A→C→Bと回った方が良い。
開始時間に合わせて、そのままABCの順番通りに回ってしまうと、自分は手ぶらでいいかもしれないが、機材を担いでいるスタッフは体力を削られてやる気をなくしてしまう。
(特に大きなお祭りは交通規制が厳しく、自動車で現場近くまで入れない。少し離れたところから徒歩で行くしかない)。

また、さらにD地点で取材許可のパスを受け取って、E地点に取材に行くとする。
そこからさらに遠く離れたF、G地点を回ってしまうと、もうD地点に戻るタイミングがなくなってしまうかもしれない。
そうすると、F地点の手前でパスを返しておいた方が良い。

とか何とか、そういう段取りが自分は致命的に苦手だ。

目前のことに気を取られて、次、その次、さらに次と考えた組み立てができない。
そういうことを難なくできる人を「地頭が良い」というんだろうなと思う。
私は地頭が良くないのだろう。
場慣れというか、経験が物を言うのかもしれないが。

結婚は優良債権

世間には、「結婚など不良債権を抱え込むようなものだ」という人がいる。
人が苦労して稼いできた金をムダに浪費するし、年とともに容色は衰えるし、いざ別れようとしても慰謝料だ財産分与だと金を奪うと。

これに対する反論として「長年連れ添う者がいる喜び」とか「家事労働を給与に換算すればいくらになる」とかいう人もいる。
しかし私個人としては、結婚の効用はもっと別のところで、実用的なものとしてあると思っている。

昔、日本人なら誰でも知ってる大企業の社長との雑談の中で、ふと笑いながら「妻に『またバカなことをやって』と叱られた」という言葉が出てきた。
一応言っておくが「偉い人との交流自慢」がしたいのではない。
そうではなくて、公の場ではどうやっても「イエスマンだらけになってしまう人」の例というわけだ。
また、いわゆる「超難関私立」と言われる学校の理事長夫妻と食事をしたときのことだ。
理事長が昔、ある人に怒って「貴様」と言ったという話題になり、理事長は苦笑いして「人を貴様と呼ぶのは侮っているわけじゃない。【様】付けしてるんだから尊敬して言ってるんだ」と冗談を言うと、隣にいた奥様が「そういう下らないことを言わない」とたしなめていた。
ずいぶん前、日野原重明さんも同じようなことを言っていた。
「だんだん偉くなってくると、人が自分に意見を言わなくなってくる。でも妻だけは、変わらず自分を叱ってくれる」
正確に書き起こしているわけではないが、そんな内容だった。

自分でも分かっていることだが、私は人との会話で、ズレたことをよく言う。
「それ、この場面、流れで言うべきこと?」という言葉を発してしまう。
返事もうまくない。やはりズレた返事をしてしまう。

昔はそういう自覚がなかった。独善的だったし、傲慢だったし、いつも偉そうにしていた。
諍いがあったときには、意を尽くして説明する努力も払わず不機嫌になって口をつぐむばかりだった。
それらを全て、いちいち指摘し、論理的に順序だてて説得し、教えてくれたのは妻だ。
「独身男は人間として未熟だ」という人がいるが、少なくとも自分はその通りだったと思う。
自分が独身のままだったらと思うとゾッとする。

ある程度年を食ってくると、上司・部下という関係でなくても「他人に異議をとなえる」ことがなくなってくることに気づく。
SNS上ですらそうだ。
「この人、妙なこと言ってるな」と思っても、いちいち「あなたは間違っている」なんてコメントは書き込まない。
むしろ賛同のコメントばかり書き込まれている。

ということは、私が変なこと書いた時にも「なんだこいつ」と思いつつ、何もコメントせずスルーされていくということだ。
これは非常に怖い。
だから右翼の人も左翼の人も、政治思想の投稿をする人は書き込み内容がどんどん先鋭化していく。
事情に明るくない「普通の人」には、もはや何を言っているのか分からない代物ができあがる。
ギャグで言ってるのかどうかも分からないものもある(たとえば、差別を許すな!と言いながら敵の出自や学歴をあざ笑うようなことだ)。
たまに「あなたの言っていることはおかしい」とコメントする人は偉い。敬意を表する。
自分の投稿に対してそういう反論があれば、自分と全く肌が合わなかったとしてもありがたいと思う。

その一番身近な存在が妻だ。
妻には遠慮というものがない。オブラートに包まず、遠回しでなく、こちらが都合よく解釈することを許さず、徹底的に批判してくれる。
妻との会話でブラッシュアップされた話題は、公に出しても失敗することがない。

こんなに役に立つものはない。
社会で真に役立つのは信頼関係だ。
良い信頼関係の基礎を築くには、まず「人が嫌がることをしない」こと。

これかっこ悪いとか恥ずかしいってことを頑張ってやらないってだけで、いい人が周りに増えていくから。

www.subcul-girl.com


良い妻は常に優良債権。

 

 

結婚式の話

「鍵山さん」とお昼ごはんを食べた(どこの鍵山さんかは書かない)。
話したのは落語や幕末の歴史、また観光のことなどとりとめのない……でも本当に楽しい時間だった。しかし鍵山さんの前に出ると、いつまでたってもしどろもどろになる。

鍵山さんから聞いて驚き、そして嬉しかったのは、
もう10年以上前、自分の結婚式に鍵山さんを招待させてもらった時の話。
当日、鍵山さんは東京から大阪までお越しになり、ホテルの入口で女性スタッフに話しかけられたという。

————
「今日はどちらへお越しですか?」
そこで鍵山さんは、私の名前を出しました。
すると、スタッフは何も見ずにこう言いました。
「それならまだ、お時間がございますね。上にご家族の方の控え室がございます。それともティールームでお待ちになられますか?」
今日は誰それの結婚式で、など何も言ってないのに話が通じ、そして時間について諳んじていることに驚いたそうです。
「私は親族ではないので、お茶にします」
「それではこちらへ」

喫茶室に案内された鍵山さんがコーヒーを飲んで時間をつぶしていると、別の男性スタッフがあらわれました。
「そろそろお時間ではないでしょうか?」
驚いて時計を見ると、確かにそろそろ会場に向かうべき時間です。
鍵山さんが会計を済ませると、男性スタッフは鍵山さんをエレベーターまで案内しました。
するとそこで、先程の女性スタッフにばったり再会します。彼女はにっこり笑って言いました。
「いいお時間でしたね」
ここはなんとすごいホテルなんだと感動したそうです。
僕の知らないところで、そんな話があったんだと僕まで感動してしまいました。
————

あの当時、自分はほとんど収入がなかった。
しかし「女性は結婚式のことを一生覚えている」という忠告を聞いていた。
どうせやるなら自分も楽しまなければ意味がないと思い、少なくとも当時「一番」だった場所を選んだ。
(一応、生涯に一回しかやらない予定だし)
今になっては、あのときの決断を正確に思い出すのが難しいが、私は貯金の全て、文字通りの全財産を結婚式に注ぎ込んだ。
そういうことをバカにする人は多いし、一理も百理もあるとは思う。しかし、とりあえず私の場合は、正しい選択だったと思う。


10年以上を経た今から振り返っても。

 

変な書き方」で勝負してはいけない。

文筆業志望の方から「この作品をどうすればいいでしょうか」という相談仕事が持ち込まれることが多い。

3〜4ヶ月に1回くらい。

私は割と「読める」というか、構造の欠陥みたいなことなら指摘できるんですね。
一応、書く方の気持ちも理解できるものですから、誉めるところを探してしっかり誉めつつ、やわらかく丁寧に、「これでも素晴らしいとは思いますが、こんな風にしたらもっとよくなる可能性が出てくる、という考え方もなくもないんじゃないかなー、と個人的には感じましたがいかがでしょうか?」ぐらいに伝えます。


もちろんそれで「なるほど」と納得してもらえることもあります。
しかし中には「あえてこういう書き方をしてるんだ!」と怒り出す人もいます。

そこに共通するのは、内容で勝負せずに「変な書き方」で勝負してくること。


J・マキナニーみたいな二人称小説であったり、

池波正太郎みたいに読点→会話で文章つないだり、

芥川龍之介の『藪の中』みたいに結末を提示しなかったり。


そんなことは実力充分の名人がやるからいいのであって、無名の新人がやることじゃない。

なぜなら読者の気持ちになってみれば分かる。

「この人の作品なら安心だ。面白いに決まってる」と期待しながら読むのと、
「知らない作家だな。読んだら時間の無駄かも」と心配しながら読むのでは、
全くテンションが異なるからです。


そこを考えず、自分の作品をみんな真剣に深く読んでくれると思ってる。

少々下手でも理解してくれると甘えて、読者の脳内をコントロールするんだという気概が足りない。

そんなのは著名人とか権威とかにだけ許されることです。